
優美な姿で夜の港に佇む巨大客船。かつて海の貴婦人と称えられたその存在は、今、違う物語を語りかける。静寂に包まれた夜の港。巨大なクルーズ船が放つ光の粒が、漆黒の闇を彩る。船体に浮かび上がるHOPEの文字。3年前、このライトアップが映し出したのは、ある種の空虚さだったのかもしれない。
あの頃、SNSは毎日のように恐怖を煽るニュースで溢れかえっていた。クルーズ船は混乱の象徴として扱われ、マスクは信仰のように崇められ、そして人々は救世主のように打ち出された注射に希望を見出そうとした。今思えば滑稽なほどの同調圧力。テレビは連日、打つか打たないかの二元論を展開し、異を唱える声は巧妙に排除されていった。
けれど今、あの慌ただしい日々を思い返すと、まるで壮大な茶番を観ていたような感覚が残る。街からは人が消え、飲食店は締め出され、誰もが不安な表情で足早に通り過ぎていった。その光景は、まるでディストピア映画のワンシーンのようだった。
この夜の光景は、そんな違和感を静かに表現しているようだ。青く冷たい港の照明と、船から漏れる温かな明かりが、水面で出会い独特の空気感を醸し出す。人工的な光が作り出す希望。その光は、本当に私たちを照らし出していたのだろうか。それとも、ただの演出だったのか。
遠くの街灯りと、船の照明が織りなすコントラスト。レンズが捉えた光の粒子は、まるで時を閉じ込めたかのように、この場所でしか見ることのできない特別なグルーヴを奏でている。誰もいない深夜の埠頭で、この船は黙って光を放ち続ける。その無言の主張に、当時の社会の縮図を見る気がしてならない。今でも時々、あの狂騒の日々は何だったのかと考えることがある。そして、この写真を見るたびに、私たちは何を信じ、何に怯えていたのかを、静かに問いかけられているような気がするのだ。
今、この貴婦人は何を想い、何を語ろうとしているのだろう。その答えは、おそらく水面に揺れる光の中にある。私たちは、まだその真実を読み解くことができていないのかもしれない。